バイク購入記

どうしてバイクの免許が取りたくなったのか?


もともと私はぶらぶらするのが好きであり、 小学校の頃から、徒歩やら自転車、鉄道に乗って、 あちこち出かけるのを趣味としていました。 私が高校生だった頃の京都は、 まだバイクの免許について、あまりやかましく言われていた時代ではなく、 結構多くの人が学校に隠れて免許を取っていましたが、 私はどういう訳かバイクとは無縁で、 徒歩と自転車と鉄道がお気に入りとなっていました。 そして、大学生となってからもその傾向は変わりませんでしたが、 その後、諸般の事情により、嫌々ながら自動車の免許を取得することになってしまいました。 それからも、どうも、排気ガスをまき散らす自動車やバイクは好きになれず、 心は徒歩と自転車と鉄道に奪われままでおりました。

それがどういう訳か、数年前に中古の原付を入手することとなり、 乗り始めたのですが、すっかり病みつきになってしまったのでした。 徒歩だと一日がかりの行程でも、自転車だと半日もかかりませんし、 バイクだとほんの一二時間ほどの距離となってしまいます。 例えば、京都市内から琵琶湖へ行こうとすれば、自転車だと 山を越え、半日とは言わずとも、それなりの距離でありますが、 原付だとほんの一二時間の距離なのです。私にとっては非常な驚きでありました。 昔からバイクに乗っていた人にとっては、何も驚くにあたらないことでしょうが、 この距離感の短縮は、私にとっては強烈な体験でありました。 何か遠くだと思っていたところが急に近くになり、 自分の頭の中に描いていた世界地図(認知地図)が塗り替えられたような印象です。

この驚きは、初めて欧州の地に足を踏み入れたときのものよりも、 また、インドのデリー空港に降り立ったときのものよりも、何か強いインパクトを受けました。 というよりも、たしか高校生だった頃、 学校へ行くと言って家を出て、 そのまま自転車で琵琶湖を訪れたことがあるのですが、 その時の新鮮な喜びが蘇ってくる気がしたのでした。 なんとなく学校を休んで、自転車で行った所といえば、 嵯峨野あたりであったり、八幡であったり、琵琶湖であったりと、色々ありますが、 今までのどこか閉じ込められていたような空間から、 急に世界が開けたような、何かを突き抜けてしまったような不思議なエネルギーを感じたのを今でも鮮明に思い出します。 宮沢賢治に「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」という歌がありますが、 私は異次元から眺める空に心を奪われていきました。 学校という陰気で無機質で、それでいて有機物の臭気を発散させるゴミのような人間ゴリラがうごめく空間……、 何とも不気味で息の詰まる思いをしましたが、そこから一歩身を引いたときに感じる広がり……、 私は尾崎豊と同世代で、彼の死後その存在を知りましたが、 なんだかその歌詞に歌われている世界ともどこか近いようにも今さらながら思っています。 そういえば、中学生だった「酒鬼薔薇」少年は、学校へ行かずに、ぶらぶらしていたそうですが、 神戸のタンク山からどんな思いで空を見上げていたのだろうかと、気になるところです。

それはともかく、原付に乗るようになってからも、あちこち出かけましたが、 関西一円は言うに及ばず、信州や東京へものんびりと足を伸ばし、 かつて自転車で訪れた所や、そうでない所も、 どこか懐かしい空間のような、そして、そこを訪れることは、 何かで失ってしまった時間を取り戻すかのような思いを抱いています。

そして、最近、ますますどこかへ行きたい熱が高まる一方で、 実際には出不精になりつつありますが、 「家から5kmの大冒険」というようなスクーターの宣伝文句にもあるように、 たった10分でも、どこか知らない所を徘徊することが、 私にとって非常に大きな意味を持つようになってきています。 10代のバイクは麻疹のようなものだと言われますが、 三十路を過ぎてのバイク熱は、麻疹のようなものであるというよりも、 もしろ「死に至る病」を癒すようなもので、どうやら納まる気配を見せていません。


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