匿名について
 

私がパソコン通信を始めたのは1992年。 私が入った所は、匿名であることが当然の世界だったような気がします。 自分の姓名はもちろんのこと、職業や所属、年齢、性別なども、 あかしたい人はあかしていた様にも思いますが、 あらゆる社会的な属性を離れて、匿名のまま、 例えば、趣味だとか、感性だとか、そういった共通の話題をもとにして、 色々書き込むことの方が、より魅力的であったような気がします。

その後、インターネットに参入したのは1994年。 ニュースグループにしろ、メーリングリストにしろ、 本名と所属を明らかにしての参加が前提であり、 それはそれで、一つの世界であったような気がしていましたが、 私の場合、そこにおいてわざわざ何かを言いたいという欲求はあまり湧き起こってこなかったのでした。

そして、プロバイダーを経由してのインターネットへの参加は、1996年のことでした。 これによって、私もホームページを作ることが出来るようになったのですが、 わざわざプロバイダーに加入したのは、あたかもパソコン通信の世界のように、 様々な世間のしがらみを離れて、勝手気ままに、自由にものが言いたいと思ったからで、 本名やら所属を公開して、それに気を使いながら、 ホームページを作ろうとはつゆにも思っていませんでした。 とはいえ、年賀状などには、ホームページのURLを記載していますので、 もともとの知り合いがこのページのことを全く知らない訳ではなく、 また、ホームページを通じてメールを交換したり、オフ会をやった人の中には、 新たに「私」を知った人もいますので、必ずしも完全匿名という訳でもありません。 しかし、だからといって、誰が見ているかわからないホームページに、 わざわざ自分の本名などを掲載しようとは、今でも思っていません。

確かに、いったいどこの誰が作ったか判らないホームページよりも、 作者の人となりがわかるホームページの方が、信憑性を高く感じるのは事実です。 私自身も、いったいどんな人が作ったのだろうか?、と思うことがよくありますが、 本名がどういう名前であるかよりも、本文やプロフィールを読んで、 人となりを理解すればよいことで、その人の本名については、あまり関心が向きません。 仮に本名らしいものが書いてあっても、それが本名であるということは確定できませんし、 戸籍抄本のコピーが掲載してあっても、その人のものであるという確証はありません。 もちろん、本文にしろ、プロフィールにしろ、あらゆるものが真実であるという確証はありませんが、 それはあくまでも内容を吟味することによって、自分自身で判断するしかありません。 これは何も、インターネットだけの問題ではなく、 テレビにしろ、新聞にしろ、雑誌や便所の落書きにしろ、 程度の差こそあれ、基本的には真偽の判定は非常に困難が多いということです。

インターネットで通販を利用する場合も、 会社名とメールアドレスだけしか公開されてないならば、少々疑わしいと思いますが、 そこに、住所と電話番号があれば少しは信頼度が高くなります。 しかし、そこでの信頼度は、せいぜい数万円程度の買い物をする時には信頼できるという程度で、 高額の買い物だと、やはり、そのホームページそのものの内容を十分に検討し、 その会社の知名度などを考慮に入れるなど、 信頼度を別の角度から検討する必要があると感じる人も多いのではないでしょうか……。

個人の場合も同様で、その人の住所、氏名、年齢、職業、所属や学歴、専攻、成績、顔写真、 身長や体重、健康状態、血圧、血糖値、猥褻物の大きさ、月間淫行回数、 生年月日、出身地、本籍地、年収、家族関係、家柄、系図、取引銀行、 預金残高、口座番号、戸籍謄本や不動産登記謄本、財産目録なども公開され、 オフ会を行うなどして、何度も面談し、それらの真偽を確定することが出来るのならば、 確かにそのページの信憑性は高くなりますが、 だからといって、例えばそのページの制作者に10億円の融資を行うことが出来るくらいに、 信頼が持てるかとなれば、ケースバイケースと言えましょう。 それらは、ある人が、便所でお尻を拭く時に、右手で拭くのか、左手で拭くのか、 といった事柄と同じで、ある場面では(例えば文化人類学的な興味からは)、必要な情報となっても、 ある場面では全くどうでもいいような情報であると言えるように思われます。

namaste-netのような個人のホームページの場合、 本文を熟読し、単なる趣味の話などから、制作者の人となりを理解し、 ホームページの信憑性を判断すればいいことで、本名や所属といった事柄は、 外的な情報に過ぎないように思われます。 世の中信頼できない事柄が多いというのは、何もインターネットに限ったことではなく、 所在地や責任者の氏名、その他諸々の情報が明かであり、 逃げも隠れもしないはずの奈良新聞社が、先日、阪神大震災の義捐金に絡む不祥事が発覚し、 新聞協会を除名されましたが、現実の世の中でも、いったい何を信じたらよいのか、 非常に難しいと言えましょう……。 ホームページの場合でも、本名や所属が公開されているからといって、 それだけで信頼するのは危険であるといえますし、 本名や所属が公開されていないからといって、 読むに足りないと思ってしまうのも早計だと思われます。 ac.jp、co.jpといえども、怪しいものは怪しく、 or.jp、ne.jpといえども、信頼できるものは信頼できるのです。 (大学や大企業といえども、研究室や部署ごとにサーバーを管理している場合、 担当者の裁量によって、いくらでもアカウントを「生産」することが出来ますし、 登記がされていても、正体不明の法人となれば、 日本中、山のように存在しています。)

それゆえ、やはり、中身をじっくりと検討して、読むに足りるのか足りないのか、 信じるに足りるのか、足りないのかを、個別に検討していくことが判断を誤らないように思われます。 (それにしても、人の本名や所属をしつこく知りたがったり、 もしくは逆に、これ見よがしに自分の本名と所属機関などを誇示する人がいますが、 いったいそれで何がしたいのか、穿鑿好きであったり、ストーカーなのか、 また逆に、露出狂、自己顕示欲の塊なのか……。 多かれ少なかれ、誰しもこれらの要素を持っているのも事実ですが、 世の中、人それぞれで面白いと言えば面白いと言えるものの、 せいぜい自己満足の域を越えないよう注意したいものです。)

そういった事情があるにも関わらず、 世の中には、ホームページに本名を明記すべきだという方もおられるようですので、 かつて質問メールへの回答として書いたものを、 これを機会に以下若干手を加えて再掲しておくことにします。 このメールは別の問題についても併せて論じたものですので、 論点が若干ずれているところもありますが、 整理してから掲載しようと思っていると、 毎度のことながら、いつになるかの見通しもありませんので、 つぎはぎのまま掲載しておくことにします。 その点はあらかじめご了承ください。

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本名を公開し、誰の発言であるかと言うことがはっきりわかるほうが、 より説得力が増すという傾向は、洋の東西を問わず見られる現象ですが、 無署名であったり、ペンネームを使った記事や評論、文学作品も、 日本に限らず、広く欧米でもみられるように思います。

署名記事・署名論評の良さというのは、 それが、「不偏不党」の「社説」とは違って、 その署名の主の視点で書かれているという点にあるのであって、 実名(役所に登録されている氏名)であるか否かは、 問題の本質をつくものではないように思っています。

私の場合で言えば、namaste-netの散人として、 ホームページを作成していますので、 ここに思想の表現者としての個人があるわけで、 ハンドル名(ペンネーム)によって制作者が特定され、 メールアドレスの公開によって、フィードバックの可能性が保証されている以上、 読み手は、私の実名を知る必要など何もありません。

……

ところで、ご指摘の「本物の民主主義」とは、如何なるものかは存じませんが、 もし、それが実現している所があるとすれば、 そこでは匿名でものを論じることが許されないのでしょうか?

例えば、意思決定を投票において行なう場合にしても、 記名投票や全会一致を原則とするよりも、 匿名での秘密投票が認められることが、 民意の酌みやすさという観点から、より民主的であると思われますが、 その趣旨を酌むならば、言論活動においても同様であると思われます。

いたずら電話や嫌がらせ、果てはテロ活動の対象となる可能性があるにもかかわらず、 実名を公開して、評論活動をするのも一つの見識であれば、 匿名で活動するのも一つの見識です。 そのような危険があること自体が、 民主主義的でないと指摘することは出来ますが、 そのような危険にあえて身を晒せねばならない義務など何もないように思われます。 英米人に限らず、勇敢さを潔いとするむきもあるでしょうが、 ある意味では蛮勇であるとも言えます。

売名行為というのは、選挙に出るとか、 何かの利益誘導のために、もしくは自己顕示欲の充足などという理由を除いて、 そもそも、自分の名前を人々に知らしめる必要など、何もありません。 なかには、一見、単なる売名行為にみえても、 良心的だと思われる方もおられますが、 自己宣伝、売名に専心されている向きもおられます。

そもそも、署名の有無、実名の公開か否かということと、 言論の価値は無関係であると言えるのではないでしょうか?

……

例えば、新聞を例にとれば、 無署名の論説委員の見解を、「社説」として掲載しながら、 これが新聞社を代表する意見でないとすれば、無責任極まりないと言えますが、 署名記事であるからといって、 その記事を掲載した新聞社に何も責任がないかと言えば大いに疑問です。

イギリスにしたところで、 「ガーディアン」の○○記者が書いた論評であっても、 それは記者個人の意見であると同時に、 それをあえて掲載した新聞社の見識も問われますし、 新聞社の見解と記者の見解が異なっている場合であっても、 その記者の言論を掲載したという編集判断は問われるのではないでしょうか?

……

悪法も法であるとして、毒杯をあおいで死んだソクラテスの行為は、 賞賛されるべきものなのか、狂信として否定されるべきなものなのか、 評価はわかれるところです。 そもそも、このような評価は、所詮は個人の好みの問題にすぎないのかもしれません。

(様々な不利益の可能性を省みず、本名を公開してホームページを作ることは、 勇敢な行為として、賞賛することもできますが、 そもそも私の場合は、そこまでやろうとは思っていないということです。 確かに、本名なども含めて、公開されている情報が多ければ多いほど、 そのページの信頼性を高く思う傾向があるのは事実ですが、 そもそも、それが本名であるか否かを確定することは出来ませんし、 本質的に考えれば、本名が公開されているかどうかということと、 その論が正しいか否かということは、蓋然性は高かったとしても、 必然的な連関はなく、全くの別問題です。)

98/2/21
98/2/28一部改訂


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何年か前のこと、私のよく知っているある文学者が、 かなりの量の書物を私のところへ製本に送ってよこした。 同じくいくつかの原稿を送ってよこして、 それを四つ折り判の型に綴じて貰いたいということであった。 …… その首領ないしはリーダーがあの文学者だったのであり、 それだからこそ彼がこれらの原稿を保管していたのだ …… 製本屋が一冊の書物を綴じて、印刷させて、発行すること、 彼がその同朋に「製本屋としてだけではなく、その他にも役に立ちたいと努める」ことは、 公平にものを考える読者なら悪くはお思いにならないだろう。 …… (Kierkegaard)
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