それにも増してノディエの創作が笑ひと涙を誘つてくれること請け合ひで、 たとへば、愛蔵する書物が台無しになつてしまふ悪夢にうなされてゐるテオドールを、 妻が揺り起こして聞けば、マージンをカットする悪魔だの用紙を酸に浸けて漂白する悪魔だのとチンプンカンプンなこ とを言ふので、妻にはてつきり主人がギリシア語を話してゐるのだ思はれたといふく だりで、「実際、かれはギリシア語が少しはできたのである。その証拠に、かれの書 斎の三棚分を埋めてゐたのはギリシア語の書物であつた、しかもアンカットの。」と いふ具合です。この「アンカットの」といふのが振るつてゐるでせう。書物を読まな い、もしくは読めない愛書家といふ奇妙にも字義矛盾した存在について大いなる興味 をかきたてられると同時に、書物の内容を理解し咀嚼するといふ味読の行為は書物の 外的形態を手つかずで美しい状態のままに保存する行為と両立し得ないのだといふ悲 しい事実を思ひ起こさせます。(頁をカットせずには書物が読めないといふのは、ち やうど、処女の純潔性を失はせることなしには地上における愛の行為を全うしえない やうなもので、アンカット愛好癖はどこかでロリータ・コンプレックスに通じてゐる かも知れません。)
われらが主人公テオドールは、可笑しくてやがて悲しい最期を遂げることにな ります。人好通りで開催された古書の競売にうつかり日を間違へて出かけたこの 愛書狂を待つてゐたのは、前日にすべて売り捌かれて発送を待つばかりの貴重な 古典籍の初版、著名な学者の手になる完璧な古写本、アカデミーにも大学にも知 られてゐない言語学の稀少文献などといつた垂涎の書物たちでした。なかでも、 そこで見つけなければよかつたものを、1676年刊のヴェルギリウスの背丈を測る におよんで、テオドールは卒倒してしまひます。といふのも、愛用のエルゼヴィ ロメーター(エルゼヴィル版の寸法を測るための精密な150mm尺)で何度測り直し てみても、この書物の背丈は彼がそれまで現存最高の76年版と自負して秘蔵して きたものよりも僅かに「三分の一行」ぶんだけ長かつたからです。三分の一行と いへば、ほんの 0.07mm ほど余白が広いだけです。可哀想に、この世で最高のヴ ェルギリウスを持つてゐるといふ夢を無惨にも破られて、あまりのショックを受 けた彼は、「三分の一行‥」と譫言のやうに繰り返しながら死の床に就くことに なりますが、断末魔のテオドールを見舞ひにきた愛書狂の友は、もはや虫の息で 意識も混濁した彼に、敢へてかう訊いてみるのです。「1635年に刊行されたカエ サルのエルゼヴィル版の本物は、どこで見分けられるんだい?」「149頁が153頁 に誤植されてゐる。」「その通りだ。では、同年のテレンティウスについては?」 「104頁が108頁になつてゐる。」「すばらしい。」…かうして書物への執念が彼 の意識をひととき呼び戻しはしたものの、忌まはしい「三分の一行」には最後ま で勝てませんでした。今際の際にベッドごと書棚の脇に運ばれた一代の愛書狂は、 愛してやまなかつたデュ・スィユやパドゥルプをひとつひとつ取り出して見せて もらひながら、両手にはトゥヴナンを握りしめつつ息を引き取ります。愛書家と しての大往生とはかくやと思はれます。
[前回のものを読む] 1997.1(2)