夢幻世界

 

春夏秋冬

蓮華野の赤紫を手にとれば垣間に見ゆる古寺の塔

行く果ての闇の地平に流れ落つ天の小川に蛍とびかう

秋風の空青ければ雀らも稲穂に群れて陽にあたりたる

冴え渡る車窓に映える街の灯の小さく揺れる姨捨の駅

 

旅の歌

天翔る橋梁越えぬ高千穂の渓谷青く時も淀みぬ

夕闇の影落としたる瀬戸内のコンビナートは人も少なし

百年の歴史を想うすべもなくレールは錆びて草深みたり

閉じられた歴史の幕は開かずとも夕日は照らす黒き運河を

見る人も来る人もなし丘の墓唐より来たる無縁の仏

憧れし祖国の街を歩めども君の耳には異国の言葉

 



 
 ○大を卒業して、まだそんなに長い年月が経った訳ではないのに、松本での四 年間は遥か彼方のことのように思われる今日この頃です。毎日毎日、何をしてい るというわけではないのに、時間だけは確実に流れていくようで、言い様のない 漠然とした切迫感にとらわれています。そのためか、この原稿を書く気力もなか なか起きず、投稿するのを半ば諦めていましたが、是非にとのお声も頂き、遅れ ばせながら、投稿させて頂きます。

 私が短歌会に参加させて頂いたのは一九八五年春のことで、当初は松本のみな らず、長野の例会にも参加したりと、我ながら熱を入れていたようですが、その 後はなんとなく例会にも参加しなくなり、有名無実な会員となってしまいました。 それでも年に何度かの短歌会は、私にとって何かなくてはならないものであった ような気がします。そして、短歌会での出来事のいくつかは、今でも強烈な印象 として鮮明に記憶に残っています。また、短歌の方は、質はともかく、量はかな りなものになったようで、どれもが捨てがたく思われ、撰ぶのに躊躇しました。 肥大化したナルシズムのなせる技とも言えますが、これも一つの自己表出の形式 なのかも知れません。以下、自撰十首にもれた歌をも含めて、若干の解説を記し ておきます。

 

 

蓮華野の赤紫を手にとれば垣間に見ゆる古寺の塔

行く果ての闇の地平に流れ落つ天の小川に蛍とびかう

秋風の空青ければ雀らも稲穂に群れて陽にあたりたる

冴え渡る車窓に映える街の灯の小さく揺れる姨捨の駅

 


 私の歌には風物を詠んだものが多いが、その中で目についたもの四首、それぞ れ、春夏秋冬に対応している。春の景色は飛鳥斑鳩の里を詠んだものか、それと も京都近郊の田園を詠んだものか定かではないが、繰り返し現われる心象風景の ひとこまである。うららかな春の午後、赤紫色の静かな蓮華畑で、まるで白昼夢 を見ているような空白の時間体験、夢のような現実の世界である。

 その他のものも同様で、ある特定の場所を詠みながら、その風景は時空を越え て追体験され、繰り返される心象風景となっている。夏の景色はアメリカ南部で のこと。昼夜を走り続けた長距離バスが深夜に故障し、我々乗客は漆黒の大平原 に放り出された。夜空には満天の星が輝き、天の河は大平原の地平へと流れ落ち ている。地上では蛍が飛び交い、まるで星の国に来たようだ。源氏蛍の生息地と して知られ、和泉式部ゆかりの近江長岡で、この風景が鮮烈によみがえったこと もある。また、季節は異なるが、晩秋の八ヶ岳のふもとで天空を流れる天の河を 見たときもこの景色とオーバーラップした。芭蕉の句、荒海や佐渡によこたう天 の河もこんな世界だったのかもしれない。

 秋の景色、これはありふれた田園風景かもしれない。アルプスの裾野へと伸び ていくような安雲野の秋はのどかである。安雲野は山々に囲まれているにもかか わらず、どこまでも続いているような広がりがあり、気の向くままの逍遥がよく 似合う。稲穂の実る田園は現実の時間を忘れさせてくれるような錯覚をもたらす。 それは、農業を営む人々の生活も、私の生活とはかけ離れ、対象化された風景と して開示される。実際は韓国の農村を詠んだものであるが、秋の田園風景の象徴 として、安雲野を思い出させるくれる。 冬の姨捨の歌は篠の井線の車窓風景で ある。長野から松本への帰路、幾度となく見た風景であるが、そのどれもが、様 々な情趣を甦えらしてくれるかのようである。

 


 

天翔る橋梁越えぬ高千穂の渓谷青く時も淀みぬ

夕闇の影落としたる瀬戸内のコンビナートは人も少なし

百年の歴史を想うすべもなくレールは錆びて草深みたり

山合いの終着駅に消えてゆく まばらな人影 夕闇の中

閉じられた歴史の幕は開かずとも夕日は照らす黒き運河を

見る人も来る人もなし丘の墓 唐より来たる無縁の仏

 


 旅で見た風景も心象風景となって繰り返し現われるものがある。夢の中でその 景色と再会したり、日常生活の中で時々訪れる意識の空白の中で蘇ったりと様々 である。また、別の風景の中に投影されて、その記憶が表出することもある。そ のほとんどがなんらかの感情をともなうものではないが、真っ白な空間に漂うよ うな、時間の止まった理想郷への希求があるのかもしれない。それは豊かな自然 や穏やかな田園への憧れだけではなく、無機的な無人のコンビナートであったり もする。あらゆることが計算され秩序正しく規格化された超現代、超人間の世界 を見たり、滅び行くものひいては自己の静かな滅亡を見ているのかもしれない。

 幻想の中では繰り返されても、現実には二度と繰り返せないのが、我々のこの 時空世界である。生あるものは必ず死に、形あるものは必ず滅ぶ。それ故、滅び 行くものの悲哀も美学へと昇華するのかもしれない。真っ白な空間に漂うような 時間の止まった理想郷、それは滅び行く果てに存在するものなのであろうか。人 はそれを彼岸に設定するが、私はそれを此岸に夢幻するのである。

 


 

真白なる霞たなびく朝ぼらけ いずこともなく郭公の声

白きかな 庭の紫陽花 雨にぬれ 白さの中に 時が流れる

紫陽花の花弁のふちに露ひとつ梅雨の雲間にひとすじの絹

夢うつつ陽のあたりたる屋根の上風に乗りける若人が声

雨あけの初夏の陽差しのまぶしさに木立の下の人の小ささ

青空を仰ぎて見れば静かなり 雀が声も陽にあたりたる

寒つばき雪の白さにあらわれて静かに落ちる白き世界に

 


 此岸の風景の中に現われた彼岸の原郷世界である。一方、次にあるのは、此岸 の世界、現実世界を詠んだものである。


 

絵葉書が旅の終わりを告げた春雪溶けながら低きへ流れる

雪溶けて なせるものなし なせるかな なさんとすれど老マルキスト

肩を組み千鳥となりて戯れゆく人波はるか遠く満ち引く

ナイターを麦酒を友に眺むればもう後はなし哀しき四十

ネクタイをほどいた友の姿見て昔ながらの言葉飛び出す

思い出に思い出にと言う友のその口癖も思い出というのか

人知れず逝ってしまったあの人の心の中を誰が知ろうか

憧れし祖国の街を歩めども君の耳には異国の言葉

 


 人は何を語ることが出来るのだろうか。いくら言葉を尽くしても、どれだけ語 れたかはわからないし、誰かが聞いていてくれるとは限らない。いくら饒舌にな ったとしてもなんらモノローグと変わらないのかもしれない。独言以外人は何も 語ることが出来ないのではないか、そんな言葉が脳裏をよぎる。それと同時に、 自己表現の可能性を信じて、この文章を書いているのである。いわば、誰かがこ の小文を読んでくれることを願うと同時に、夢幻のモノローグの世界に浮遊して いるのかもしれない。 一九九一年十二月


 

 上記の小文は、○大短歌会『○個○之歌』に、 1991年に投稿し、翌年『探索』に再掲したものです。 もう少しまとまったものに書き改めてから、こちらにも掲載したいと思っていた のですが、その完成を待っているといつになるかわからないので、とりあえず当 時のものをほぼそのまま採録することにしました。 1997/12 散人



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