帚葉翁はいつも白足袋に日光下駄をはいていた。
その風采を一見しても直ちに現代人でない事が知られる。
それ故、わたくしが現代文士を忌み恐れている理由をも
説くに及ばずして翁はよくこれを察していた。
わたくしが表通りのカフェーに行くことを避けている事情をも、
翁はこれを知っていた。(荷風)

かぞへ見る日記の巻や古火桶 (荷風) 


当時は誰一人として彼の言うことに耳を傾けた者はいなかった。
初めは誰もが、彼のことを一風変わった奴だと思った。
だがそのうち好ましくない奴、さらには頭が少しおかしい奴、
最後には正真正銘の狂人にされてしまった。
彼が狂人であったことは、ほぼ疑いないようだ。
当時彼が書いた多くのものから、それはうかがい知ることが出来る。
だが彼を狂気に追い込んだ原因は、この敵意に満ちた彼に対する評価であった。
異常な行動は他人の心に疎外感を抱かせるものだが、
その疎外感は、ややもすると異常な行動をさらに助長することになる。
こうして駆り立てられた疎外感は、
内部循環を繰り返し、ついにはある種のクライマックスに達する。
(Robert M. Pirsig)


私は田舎が好きじゃない。
何故かと言うと、どこでも、疑いの目で迎えられるからで……

(セリーヌ『北』)


Nietzsche

思索者になる。−−少なくとも毎日の三分の一は、 情熱も持たず、交友も避けて、書物も読まずに過ごさないならば、 どうして、思索者になることなど出来ようか?

残酷は人類の最も古い祭りの歓楽の一部をなしている

狂気の人間。−−君たちはあの狂気の人間のことを聞いたことがないのか?
彼は明るい午前にランプに火をつけて、市場に走り込んできて、
ひっきりなしにこう叫んだ。

「私は神を探している! 私は神を探している!」と。
−−そこにはちょうど神の存在など信じていなかった人々がたくさん集まっていたので、
それで彼は大きな物笑いの種になった。

神がどこへ行ったか判らなくなったのかい?、と一人が言った。
神は子どものように迷子にでもなったのかい?、と別の一人が言った。
……神は我々のことを恐がってでもいるのかい?……
−−そう人々は口々にわめき立てては笑った。
すると、狂気の人間は、人々の真ん中に飛び込んで、……叫んだ。
「……我々が神を殺してしまったのだ−−君たちや私がだ!」

生は多数者の、あまりにも多数の者たちよって、そこなわれている


俗物とは、世の中について、唯一でないその現象について、

絶えずそしてまったく本気で、心を奪われている人々であると、

私は定義したい。

(Schopenhauer)


「後の観ん者、我と志を同じくせば、隠すことなからん。
吾を知らざる者は、これを見るべからず。」
(前中書王「池亭記」『本朝文粋』)


Daniel Defoe

人々の心に感動を与えようと思えば、
誰も知らないような人によって、
遠隔の地で行われた事実を扱わなければならない。

救世主たるキリストの奇蹟でさえ、
それを行ったのが大工の倅(せがれ)であると考えた場合には、
侮辱嘲笑の対象となった。

大工の倅ということであれば、
人はそんな家柄や先祖を見下し、
その兄弟姉妹を見れば、
自分たち同様の並みの人間に過ぎないからである。

この物語の舞台は遠隔地に設定してあるが、
そのもとになったものは、
実はごく身近なところにあったということを読者が考えた場合、
果たして、こういういろんなことに関する教訓が功を奏するかどうか、
疑問は依然として残る。
(『ロビンソン・クルーソーの生涯と驚くべき冒険の真摯な反省』より)

私が情婦でいる間は、囲われている側は、
囲っている側からお金を貰うのが当たり前なことが判っておりました。

ところが、ひとたび妻になれば、
それまで私の持っていたものはすべて夫に譲り渡され、
それ以降は私は夫の権威に屈服することになるのです。

私はお金が十分にあり、いわゆる捨てられた情婦になる恐れはなく、
結婚するために彼に2万ポンドをあげる必要もありませんでした。
……

結婚すると女性は、自分自身を完全に投げ出して、
せいぜい女中頭に甘んじることになり、
その時から彼女は、耳に穴をあけられたり、戸口の柱に釘付けされして、
生涯召使いとして身を捧げる約束をしたイスラエルの子孫たちの召使いよりも、
良くも悪くもないようなものとなります。

手短に言うと、結婚契約の本質そのものが、
自由、財産、権威、あらゆるものを男性に捧げることに他ならず、
奴隷になるのです。
……
(ダニエル・デフォー『ロクサーナ』)


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