ネパールへの学校援助に思う


ネパールに限ったことではありませんが、 学校への就学を援助するという海外協力のあり方があります。 海外への援助についていつも思うのは、 果たしてこれがいったい誰のためのものであり、 本当に役に立つのかということですが、 この学校への就学援助に対しても同様の思いを抱いています。 文盲をなくすことは、本当にその人のためになるのか? もしくはその文化にとって、どうのような貢献をするのか? また、学校へ行くことはそんなに良いことなのか?……、 このような疑問が次々とわいてきます。

文字は読めないよりも読める方がよいと、一般に考えられていますし、 近代社会の枠組みの中で、何らかの積極的な役割を担おうと思えば、 文字が読めることが必須条件であることは疑えない事実ですが、 文字を覚えることによって失ってしまう、 人間が持っていた原初的な力や喜びといったものにも、注意を払わねばならないように思えてなりません。 文字を覚えさせられてしまった私などは、 愛書家と称して、文字が綴られた物体の蒐集にうつつを抜かしているわけですが、 ネパールなどで、文字を知らない人々と接するにつけ、 我々が遥か彼方に失ってしまったような鮮やかなイメージの世界や、 書き留めておくことが出来ない力動的な世界観などを、垣間見せられるような気がしてなりません。

近代社会には、義務教育の普及が文化水準のメルクマールのように考えられる傾向がありましたが、 果たしてそのことを自明の真理として、学校のない「遅れた」国に、学校建設の「援助」をしたり、 子供たちの就学を「援助」することが、本当に良いことなのか、もう一度根本から検討する必要があるように思われます。 そのことはつまり、我々自身のあり方を問うことでもあります。

例えば、義務教育ということで見れば、 義務教育によって我々は、文字を覚え、計算を学び、 近代社会における様々な知識を身につけることが出来ましたが、 それと同時に、学校という均質な空間に身を置くことによって、 知識を学ぶという行為の中から、時間に従うこと、規則に従うこと、 教師−生徒という特殊なコミュニケーション関係までをも、 植え付けられていているのです。 様々な政治理念や権利や義務といった概念を学び、 民主的と称される近代的な国家への参政権を手に入れる訳ですが、 それと同時に、近代的な国家・社会の枠組みの中に かんじがらめにされてしまっている側面も見落としてはいけないように思われます。

末は博士か大臣かと言われた明治に立身出世主義ほどではないにしても、 我々は、学校で学ぶことによって、社会で「上手く」やっていくことを 知らず知らずのうちに、半強制的に選択させられているのです。 学校で学ぶことによって。いったい何をえようとしているのでしょうか? 末は博士か大臣か、その言葉の表すものは、単なる個人の立身出世主義であるというよいりも、 国家の富国強兵という理念と密接に結びついていましたが、 このことは今でも大差はないように思われます。 ここで言われる立身出世主義が持っている 社会の中で認められることが自己利益につながるという二重構造は、 大きな示唆を含んでいるように思われます。 医は仁術という大義名分のもとに巨万の利益を得たり、 政治家、高級官僚、大企業の利権……、 近代社会は、それ以前の社会に比べて、果たして、豊かになったといえるのかどうか、 学校はそのような問いを許しませんが、 そのような近代社会を支えているものの一つに学校という制度があることは 疑いえない事実といえましょう。

たしかに、産業技術は進歩しました。 谷間に水を汲み行くことなく、モーターの力によって、蛇口をひねれば水が自由に使えます。 水を汲みに行くという重労働から我々は解放されましたが、 しかし、日々新しいモーターを開発し、製造し、販売するというような円環に組み込まれ、 全く心休まることがないような毎日にとって代わりました。

たしかに、医療技術は進歩しました。 新型のワクチンが開発され、直らないとされていた不治の病が治るようになりました。 しかし、新たな病は日々生まれ、我々には病院という空間の中で、 実験用モルモットであるかのごとくに切り刻まれて、 最後は、たくさんの管をつながれたまま、苦しみながら悶死するのか、 それとも、たとえ植物状態となったとしても、心臓が動き続ける限り、生かされ続けるのかという 何とも哀れな最後が待ち受けているのです。 脳死が人の死であるかどうかということと、 人間が自分の死後の臓器を提供するかどうかということは、 まったく関係がないものであるにもかかわらず、 一連の法律制定の動きを見ていると、 新たな人体実験用の移植臓器が手に入らぬかと、手ぐすね引いて待つ医師たちは、 人間が尊厳を持って死を迎えることが出来るかどうかということに、 関心など持ち合わせていないことを改めて思い知らされます。 様々な「高度」医療が「発達」し、天井知らずに医療費は増大していきます。 我々は、実験用モルモットにされるだけではなく、 その実験費用を捻出するために、多額の保険代を請求され、 そうした保険代が、まわりまわって医師や製薬会社のゴルフ代や、ベンツ、BMWへと化けているのです。 搾り取られるだけ搾り取られて、いったい医療によって、我々は何を得ることが出来るのでしょうか?

たしかに、交通は進歩しました。 飛行機に乗れば、10時間あまりで欧州まで飛んでいくことが出来ます。 仕事の能率は上がったかもしれませんが、仕事は決して減少していません。 旅の行動範囲は広がりましたが、だからといって、旅の濃度が高くなったわけではないのです。 しなくてもよい出張が増え、余裕を持った巡礼の旅が減っていったのです。

このように、近代社会によって豊かになったと思っているものも、 本当にどうなのかと疑えば、その仮面を容易に剥がすことが出来るでしょう。 学校とて同じようなものなのです。 何ら知的好奇心も喚起されないまま、一方的に公式や法則を詰め込まれ、 うまく暗記して、教師が望むように答えることが要求される学校。 一方的に垂れ流される知識、それを繰り返し繰り返し、身につけさせらたり、 もしくは、興味を持つことを強要され、参加型の授業という茶番劇に協力させられたり、 クラブ活動や生徒会活動、ボランティア活動などさえも、 あたかも興味があるかのように振る舞うことを強制され、 それを行わないものには、人間失格の烙印が押されるのです。 そして、その強制はあくまでも自主性という装いまで持ちながら、 洒落た質問や問題提起することまでもが評価の対象となり、 子どもの性格や態度、教師の好き嫌いの感情の交じった内申書なるものによって、 上級学校への進級が決定されているのです。

学校に学んで、我々は、果たして幸福になったのでしょうか? 確かに、産業は「発達」し、「医療」も進歩しました。 しかし、このような「発達」や「進歩」は、 以上のごとく、我々を決して豊かにするものではないのです。

学校で成功した人々の末路は果たして如何なるものなのでしょうか? 「立派な」官僚として、許認可権を振り回して、リベートをたかり、天下りと称してしたい放題か、 それとも、エリート会社員として、政治家に賄賂を贈り、接待と称しての浪費三昧か、 それとも、「有能な」技術者として、殺人兵器の開発に従事するのか、 血税の浪費に勤しむ「研究者」、病人を病院に囲い込み、死の苦しみを与え続ける医師……、 しかし、一見それらの悪事によって彼らが全くの幸福なのかと思えば、 いずれにしても、自分の時間を持つことが出来ない、 不気味な円環の中で馬車馬のように喘いでいるだけのようでもあります。 もしくは、子ども相手に珍妙な理念の植え付けに熱心な教師や、 公務員として、三時のお茶と宴会の時間を楽しみにサボらず働かずの規則正しい地味な毎日を送るのかなどなど、 まぁさまざまな生活があるのかもしれません。

「学校を破産させたい」と書いて飛び降り自殺をした小学生や、 「学校殺死」と声明文を書いた某国の首切りジャック酒○薔薇氏の声も、 あながち全く的はずれのものなのでは決してなく、 その声の中に潜む大きな問題点を真摯に受けとめる必要があるのではないかと思われます。 そのような観点から見れば、ネパールにおける学校建設なるものも、 無条件に支持できるものでないことがあきらかです。


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