しかし、いったい何が公表されてもよいかどうかとなれば微妙な問題を含みます。 心理や教育を考える上でこの事件を知ろうとするならば、写真を見るだけではなく て、やはり、本人と面接する必要があるでしょうし、ある程度は、詳細な供述調書 にて、代用することも可能でしょう。さらに、家族構成や家族環境、生育史、友人 関係、学校の様子、地域の様子、家族の写真、親戚の写真、同級生や友人の写真な ども、事件を知る上では必要な資料となるでしょうし、実際に中学に出向いて、面 接を試みれば、よいでしょう。取材と称して、一部マスコミは、このような調査を 行い、ものによっては公開していくでしょうが、同級生の様子や人間関係、写真な どは、それを見ることは、事件を理解するうえで、必要不可欠なものですが、だか らといって、それが公開されるならば、重大な人権侵害になるのも事実です。
また、氏名や学校名、住所、電話番号といったものに関しては、社会的制裁という 側面からは、獄門(さらし首)の伝統から言って、首(写真)と名前は不可欠かもしれ ませんが、事件を「知る」うえでは、あまり重要な情報とは思えません。
さらに、連日、新聞やテレビでは、あらゆる犯罪者の氏名と写真が多量に公開され つづけていますので、近隣住民や関係者以外には、忘れされてしまう可能性も大き いですので、社会的制裁としての意味合いも薄れてきているように思われます。と はいえ、よく考えてみると、微罪で逮捕された人の名前など気にも止めていません が、凶悪犯の名前というのは、意外と覚えているようでもあり、氏名を公表するこ との意味は、社会的制裁、マスコミによる私刑的側面が強いのではないかとも思え てきました。