新年早々このヴラン古書部を訪れたときには、めぼしいものもなかつたので店 を出がけに最新の古書目録をいただいてきましたが、帰りのバスのなかで何気な くその目録をめくつてゐると一冊の本に目が釘付けになりました。曰く、「J. ラシュリエ著『帰納法の基礎、および心理学と形而上学、パスカルの賭けについ ての覚書』1902年刊、十二折版、背粒起革装、250F、L.ラヴェルの署名および 注釈が書き込まれた版本」 ラシュリエといへば、十一年間エコール・ノルマルで 教鞭を執り、寡作ながら哲学界に多大な影響を与へたスピリチュアリストで、ベ ルクソンの処女作『意識に直接与へられてゐるものについての試論』もこの人に 捧げられてゐます。勿論ラシュリエのこの古典的著作は、こちらに来てすぐにこ れを手に入れてありますが、しかし目録に掲げられたこの版本は、なんとルイ・ ラヴェルの手沢本であると言ふのです。フランス唯心論哲学の系譜に少なからぬ 関心をいだいてゐる私にとつて、のちに一家をなすことになる青年期のラヴェル がどのやうに師のラシュリエを読んでゐたのか、ここはどうしてもその自筆の書 き込みを実見して、いはば哲学者同士の対決に立ち会ひたいところです。しかも 250Fとしてある。普段は強気の価格設定に眉を顰めたくなるヴランですが、この 書物に関しては何といふ甘い値づけをするのだらうと首を傾げたくなりました。
その他に興味を引かれたものとしては、レヴィ・ブリュールがジャネに宛てて 献呈署名した『ヤコービの哲学』(1894年刊、八折背粒起革装、350F)や、同じ くレヴィ・ブリュール著『原始的霊魂』のアルファ紙による限定初版で著者の自 筆署名が入つたもの(1927年刊、八折仮綴版、450F)などがありましたが、やは り何といつても欲しいのはラヴェルの旧蔵書だよなぁ…と思ひつつ、この目録の 表紙を見直すと、1996年11,12月となつてゐる。一挙に目の前が真つ暗になりまし た。売れ残つてゐるはずがない! 帰宅して夕方の5時半、一縷の希望にすがり つつ祈るやうな気持ちでただちにヴランに電話を入れましたが、店主の答へはつ れなくも「売り切れました」の一言。むぅぅやっぱりさうだったか…このときば かりは予め目録の送付をお願ひしておかなかつた自分の愚をわれながら恨みまし た。日本にゐる先輩の言ふには、一度頼むとヴランはこちらが注文しようとすま いと、いつまでも目録を海外にも送り続けてくれる律儀な書店であるといふのに (ちなみに Librairie J.Vrin の連絡先は 6, place de la Sorbonne, 75005 PARIS, TEL:01.43.54.03.47)。
翌日、おくればせながらヴランに目録送付の登録をしに出かけても後の祭り、 念のために他の2冊のレヴィ・ブリュールについて尋ねてみましたが、言ふまで もなく売り切れです。とはいへ、その日はエリー・メリックがオルレ・ラプリュ ヌに宛てて献呈署名した十二折版『権利と義務について』(第二版1877年パリ刊 xiii-490p. ちなみに初版はパリ大学神学部に提出された博士論文で、1867年に八 折版 183p.で出てゐます)を棚から見つけて入手することができたので、せめて もの慰みとなりました。オルレ・ラプリュヌといへば、モーリス・ブロンデルと いふ偉大な弟子をもつた哲学者で、世紀末までエコール・ノルマルの講師をして ゐましたが、この先生はソルボンヌの神学部教授メリックから献じられたこの書 物を実に上品に装釘させてゐます。といふのも、これは鮮やかな若緑のクロス装 に海老茶の背ラベルを貼つたポール・ヴィによる装釘の極美本なのでした。しか し、完全な状態の書物を所有することに伴ふ不幸は、これを美しいままに保たな ければならないといふ一種の強迫観念が生じることです。この意識は読書にとつ て甚だ窮屈であるばかりではありません。といふのも、後日この書物を読んでゐ るとき、よく注意してゐたつもりでしたのに、われにもあらず机の角に書物の一 端をぶつけ、自らの手でこれを傷つけることになつてしまつたのです。覆水盆に 返らずで、一度完全な状態を失つた書物は二度と元の状態には戻りません。その 喪失感たるや、原因が自分にあるだけに、耐へ難いものがあります。小谷木さん が以前に結露で愛蔵書を台無しにされたときの心境もかくやと思はれます。やは り、完全は物の側にではなく精神の側にこれを求めるべきか…と兼行法師の教へ などを思ひ出して、自分を慰めたりなぞしてゐるうちに、ラヴェル旧蔵書を買ひ 損なつた悔しさが漸く紛れてきたのでした。
[前回のものを読む] 1997.3(3)