今日東京市中の散歩は私の身にとっては生まれてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外らない。 これに加うるに日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。 およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味わおうとしたらエジプト、イタリーに赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思いをさせる処はあるまい。 今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る時には必ず貸家か製造場になっているに違いないと思えば、 それほど由緒のない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床しくまた悲しく打仰がれるのである。
子どもの頃より散歩を愛した荷風先生。移りゆく風景に哀惜を感じておられたのでしょう。 たいした由緒などがなくても、自分にとっての思い出の場所、見慣れた風景にはことさら哀惜を感じるものです。 というよりも、滅びの美学のようなものをさしているのかもしれません。 私も幼少の頃から街を散策するのが好きだったゆえか、 この文章に接した時、自分の思っていたことを的を得て表現してくれているように思ったのでした。 いつの頃からか、有名な社寺仏閣やら、外国の旧跡を訪れることよりも、 追憶の風景をたどる何気ない散歩の方が、自分にとっては価値あるものであると思うことがよくあります。 話は少しずれるでしょうが、世間では訪れるべきだとされる「人類の遺産」「大史跡」といったところで、 何も有り難がる理由などないのかもしれません。 どこへ行こうが、自分が求める風景というのは、 自分の中にすでに出来上がっているのではないかとふと思うことがあります。