パラントの世界


アナーキズムは、国家の廃止によって、消滅する矛盾であるところの個人と国家に存する矛盾を認めはするが、 個人と社会との間に存する根底的な、いかんともしがたい何らの矛盾をも認めない。 アナーキズムは、国家を非難するが、社会を咎めることなく、ほとんど神格化する。 ……

個人主義からみれば、社会は国家より以上ではなくても、ひとしくまったく暴力的である。 まことに社会はあらゆるジャンル(世論、風俗、習慣、礼儀、お互いの監視、 他人の行為に対する多少控えめなスパイ行為、道徳的同意または非難、その他)における 社会的紐帯の集まり以外のものではない。 かく理解された社会は、国家統制論者の行い得たほど、 深くかつ継続的に個人の生活の隅々にまで侵入するところの、大小の、押しつけ的な、 逃れがたい、普段のりじりじさせるような、また冷酷な暴政の閉じられた組織を構成する。 さらにもしその点を仔細に見れば、国家統制論者の暴政も、習俗による暴政も、 同じ根源、すなわち、その支配及び威信を確立し、 あるいは守ろうとする、あるカスト、 あるいはある階級の集団的利益から生じている。 ……

両者の束縛は、根底において、集団にとって有用な道徳についてのある慣例主義を支持するという 同じ目的を持ち、また独立を望む人々及び権力に従おうとしない人々を苦しめ、 かつ排除するという同じ態度をとる。 唯一の相違は、(世論とか習俗とかによる)面倒な認可は、国家の認可より一層偽善的だということである。


アナーキズムと個人主義、この両者はどこかに親近性を持ちながら、 根底において異質なものなのかもしれません。 アナーキズムは、戦闘的であると同時に、どこかオプティミスティックであり、 人間や社会への認識が、浮薄であるといえるのかもしれません。 国家は悪であるが、社会は善である。 どこか人間の性善説をオプティミスティックに信じているのかもしれません。

パラントは、人間集団の持つ凶暴性に注目し、 それは国家以上の悪であり、抑圧であると考えます。 国家による束縛か、社会による束縛か、 いったいどちらの方が、救いがたいものがあるかと言えば、 パラントは、社会による束縛の恐ろしさ、偽善性に着目しています。 国家による束縛は、公布された法令と警察力により、それなりの合理性を備えていますが、 社会的拘束は、人間関係や利害関係、集団同士のかけひきなどなど、何とも複雑で、恣意的なものです。 そのような社会による恣意的な束縛よりも、 法律や制度によって整備したものが国家だとすれば、 アナーキーな状況よりも、必要最低限の最少国家の必要性を主張する 昨今のアメリカのリバタリアンと称される自由主義思想家ともどこか通じるところがあります。

というよりも、そもそもパラントの考える個人主義は、 あくまでも個人が抱く心理的状態であり、生活態度をさし、 社会組織や政治・経済を問題の中心とするアナーキストとは、対象や目的も異なっています。

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