それに対して、キリスト教圏においては、ぶどう酒は宗教儀式でも用いられますし、 酔っぱらい天国の日本でも、清酒は神道の儀式でも使われる聖なる水とされています。 聖水といえば、一部のマニアにとっては、アルコール飲料のことではなく、アンモニア含有の排泄物を称するようで、 飲用にも用いるとのこと、人間の価値観というのは、実に千差万別だとつくづく思い返されます。
また、アルコールを禁止している国では、ハッシッシ(ハッシッシュ/hashish/hasheesh/大麻樹脂)には寛容でも、 欧米や日本は周知の通りですし、数年前、マレーシアではハッシッシで英国人旅行者が死刑になり、 外交問題に発展していましたし、中国その他でも同様の事情があることは注目すべきことです。 価値観は多様なようでいて、人間はそこに身をおく社会の価値体系や道徳規範によって糾弾され、 時と場合によっては死刑にされてしまう可能性まであるのです。 郷にいれば郷に従えという教訓譚のようでもありますが、 人を死刑にする権限の源泉である法律も、所詮は単なる約束事に過ぎませんし、 社会規範や道徳意識にしたところで、普遍的なものではなく、 うつろいやすく恣意的なものなのです。 (とは言え、ことの本質的な善悪はともかくとして、 アルコールの飲用が禁止されている国でお酒を飲めば処罰される可能性がありますし、 大麻を禁止している国でハッシッシを吸引すれば、 死刑になる可能性まであることは歴然たる事実として受けとめるしかありません)
ニコチンやタールを多量に含有するタバコの方が健康の害毒となり、 アルコールの方が酔っぱらいその他様々な社会迷惑の源泉であるにもかかわらず、 なぜ、人々に一時の安息と平安をもたらすハッシッシは禁止されているのか? 高校生が便所に隠れてタバコを吸おうが、 どこかのおっさんがタバコを吸って癌になろうが、 そんなことは私の知ったことではありませんし、 社会が関知することでもないのです。 国家の役割、社会として取り組むべきことは、 個人の喫煙をとやかくいうことではなく、 あくまでも最少限度、タバコが健康に害を及ぼすものだという研究成果の公表や、 間接喫煙が極めて他者に迷惑な行為であることの徹底、分煙化の促進などです。 それにもかかわらず、ある人がタバコを吸うのであれば、 なるべくなら煙の洩れてこないどこかの山奥でやってもらいたいとは思いますが、 直接煙が立ちこめるなどの被害が出ない限り、 満員電車で強烈な放屁をかまされることに比べれば我慢の範囲と言えましょう。
私的な宴会でアルコールによって、乱痴気騒ぎをしようが、喧嘩をしようが、 ゲロをはきたおそうが、そんなことも知ったことではないのです。 重要な会議の取り決めを、わざわざ酒の席でしたり、 酔っぱらったまま公道を歩き、嘔吐するなど、これほど迷惑なことはありませし、 自動車を運転して、ぶつけられでもしたら、こちらの生命にも直接被害を及ぼしかねません。 ハッシッシもトリップするので危険だという指摘もあるでしょうが、 アルコールは人間を攻撃的にすることが多のに比べて、 ハッシッシのトリップは自己の内面への沈潜であり、 セッティングを誤らなければ、他者に危害を加える可能性はアルコールよりも少ないのではないでしょうか? 費用にしたところで、大麻は自己栽培が容易であり、 合法化されているオランダの例を見てもわかりますが、決して高価なものではありません。 (→ 詳細は、[続き]にて)
何でもかんでも、社会や国家の枠組みのなかで決定されてしまうのではなく、 なるべくなら、個人の自己決定、裁量権の拡大こそが望ましいと思うのですが、 それがかなわないのなら、せめて、あちこちを旅して、様々な価値体系を味わい、 社会規範の桎梏から自己を解放するのがせめてもの慰めかもしれません。
このように、人間の文化には、実に様々な価値観が共存していますし、 歴史的に見ても、ある行為が善であるのか悪であるかの変遷を見ることが出来ます。 例えば、現在の日本では悪だとされる売春についても、 長年公認されてきたものであると言えます。 江戸の遊郭文化は言うに及ばず、 キリスト教的な西欧文明流入の明治以降においても新たな公娼制が生まれ、 軍隊においても慰安所の併設が認められていたことを思えば、 有史以来、綿々と受け継がれてきた伝統文化が、 敗戦のどさくさで消滅させられたと言うことができます。 とはいえ、事実としては、そのまま存続しているところもあれば、 新たな産業として誕生したものもあれば、 趣味の延長とも言える援助交際の隆盛を見ても、 いくら弾圧しようが禁止しようが、 人類が続く限り存続するように思われます。