ロンドン滞在記

Clicklewoodの下宿屋さん


Clicklewoodは、ロンドン北郊。 イギリス中どこにでもあるような煉瓦作りの家のならぶ住宅街ですが、 この街は、前記のChiswickとはどこか異なります。 イギリスは階級社会であるといわれるように、 階層やら民族やら、人間を分類する様々なカテゴリーごとに、 不思議と棲み分けが進んでいて、街ごとにそれぞれ独特の雰囲気を醸し出しているのかもしれません。 ClicklewoodのHigh Streetでバスを降りると、落ち葉や紙屑が舞い、 壊れたままの公衆電話や落書きだらけの郵便ポスト、道行く人々の歩き方も異なります。 地下鉄の駅には少し遠いものの、歩いて行けない距離ではありませんし、 バスに乗っても、ロンドン市街(West End)にも近く、それなりに便利のいい街です。 また、緑豊かなHamsteadに歩けば、中産階級の住宅街が広がっていますので、 そこまで行けば散歩にはもってこいの場所でした。

さて、私が住んだのは、High Street近くの住宅街の一角で、 小さな2階建て、4LDKほどの煉瓦作りの家でした。 大家さんは、パキスタンからの移民の60歳前後のおばさん、 旦那はマンチェスター方面に出稼ぎに行き、これまた月に一二回しかかえって来ず、 30歳前後の長男も早朝から深夜まで働く会社人間で、これまた家にはほとんど帰って来ません。 それゆえ、使われていない部屋を貸間としており、 私もその一室を借りることにしたのでした。 繁忙期には全室を賃貸するために、一家は応接間で寝袋にくるまって雑魚寝していたので、 多い時で4人位の下宿人がいたでしょうか……。 ここでも、入れ替わり立ち替わり、色々な人が行き来していきました。

当初の家賃は週45ポンド前後だったように思うのですが、 途中から値引きしてくれ、週30ポンド(月3万円程度)まで下げてくれました。 ただ、この家は、日本の建て売りの家のように狭く、 荒れ気味の庭には、芝生と菜園しかなく、そんなところに洗濯物が干してあると、 しみったれた生活の臭いがすると言うか、世帯じみた感じがして、 Chiswickの家のように、優雅に庭を眺めることは出来ない気がしました。 また、込み入った住宅街のため、 隣家のナイジェリア人の家から流れてくるアフリカ音楽の騒音に悩まされ、 当初はあまり居心地よく思わなかったものの、 台所やら、洗濯機も自由に使わせてもらえて、慣れれば住めば都、 飼い猫もなついてきて、そのまま永住したい気分にさせられました。

私は、この家に来る前には、ドイツなどをぶらついてから、 一ヶ月ほどウィーンに滞在していたのですが、 ハンガリーで大量に食料を購入してから、ロンドンに舞い戻ってきたのでした。 当時のハンガリーは、それなりに安定した社会主義経済が存続し、 食料品の価格が低く抑えられ、食料品の持ち出し制限もあったようです。 それゆえ、ロンドンでは考えられないくらいに、 素朴で美味しい食料品が多く出回っておりました。 ウィーン滞在中も、ハンガリーに買出しに行ったくらいです。 ロンドンへの鉄道と船での帰路、果物や総菜類は旅の途中で食べ、 蜂蜜やサラミ、ワインやビスケットなどの腐りにくいものは、 鞄に入るだけ入れて、ロンドンまで持ち帰ったのでした。 蜂蜜と言えば、熊のプーさん(Winnie-the-Pooh)のお気に入りですが、 チューブ入りのチーズは、私のお気に入りの食べ物で、 これらをパンに塗って食べていました。

今回のこのClicklewoodの一家は、 パキスタンからの移民ゆえ、もちろんイスラム教徒で、 到着早々に、豚肉とアルコール類は家の中に持ち込まないでくれと言われてしまいました。 私はハンガリーから持ち帰ったサラミとワインをどうしようかと思いながらも、 そのまま捨てるのは忍びないので、 部屋でちびちびやっているうちに、すべてを平らげてしまいました。 トカイワインなど、私のお気に入りの飲み物だったのですが、 これをロンドンで隠れて飲んでいると、どうもその甘ったるさがしつこく感じられました。 荷物検査をされていたら、とんだ天誅もので、袋叩きになっていたかもしれません。 神のみが知るとは言っても、今のところは、アッラーの神の怒りも買わずに、平穏に暮らしております。

この大家のおばさんは、敬虔なイスラム教徒であるゆえか、 常にベールを頭にかぶって、民族衣装で生活していましたが、 イギリスに住んで30年以上とのことで、 しかも、緯度の高いロンドンでは日の出日の入りの時刻が季節によってはとんでもない時間になり、 ベッドに寝ころんだままで心の中で礼拝しておくこともあるとのこと。 30歳前後の息子さんは、イギリス生まれのため、ウルドゥー語よりも英語が堪能で、 深夜のご帰還時には、ほのかに酒臭さが漂う時もあったので、密かにアルコールを飲んでいたのかもしれません。 (パキスタンでは飲酒は禁止されていますが、トルコやマレーシアではほとんど自由です。)

当時のロンドンは、各地でイスラム教徒やIRA(北アイルランド独立運動)の爆弾が飛びかい、 イランのホメニイ師が英国在住の『悪魔の詩』の著者に対して、死刑宣言を行ったのもこの頃でした。 Charing Crossの気に入っていた左翼系の本屋が、イスラム原理主義者によって爆砕され、 少々物騒な雰囲気が漂っていたように思います。 政治動向を見れば、サッチャー政権の末期で、公共事業の合理化が進行しつつも、 地下鉄やバスのストライキが頻発し、相当な混乱がロンドン市内を襲っていました。

このClicklewoodは、アイルランド系住民とイスラム教徒の多い町で、 どこかすさんだ雰囲気が漂っていたのですが、 身内を攻撃する爆弾犯人はいないだろうと思えば、 かえって安全なようにも思えたのでした。 近所には、教会を改装したモスクがあり、 様々なイスラム系の住民が多数住んでいる一方で、 IRA関連の落書きも多く、昼間から酔っぱらったアイルランド系のおっさんが道で寝ころんでいたり、 いつも決まったところに立って、小さな子供を連れて物乞いをしているアイルランド人の女性がいたり……、 敬虔なイスラム教徒であるパキスタン系のおばさんからすれば、 これらは我慢のならない存在であるかのようで、 彼らはおかしいのではないかと、常に悪口の叩き放題でした。 また、少し離れたところにはユダヤ教の教会があり、 そこには古式ゆかしい黒い山高帽とコートを着た髭面のラビたちもいましたが、 人種のルツボ状態でありながらも、微妙に棲み分けが進んでいるのです。

この大家さん一家がこの町に来たときは、近隣の家はすべてイギリス人が住んでいたとのことですが、 そのうち、一人去り、二人去りと、両隣や裏の家などはすべて、 イスラム系の住民ばかりになったそうです。 ただ、同じイスラム教徒と言っても、アラブ系とパキスタン系の人々の習俗は近くても、 アフリカの黒人系の人とはやはり肌合いが異なるようです。 私がうるさいと感じた隣家のアフリカ音楽は、 大家さんにとってもやはり頭痛の種のようでした。 異質な人間が暮らすというのは、本当に難しいものかもしれません。

下宿人たちも、様々な人間がおり、合う人もいれば合わない人もいる訳で、 一時期住んでいたスペイン人のロック好きの女の子を、 大家のおばさんは非常に嫌っておりました。 派手な服装をして、髪を染めたり、ピアスをしたり、 夜な夜な遊び歩いて、うるさい音楽をならしたり……、 いったい何が嫌いなのか、私にもなんとなくわかるのですが、 私が気になる鼻のピアスに関しては、 パキスタンの風習でもあり、まったく気に障らないとのことでした。 悪口というか、好き嫌いに関して、あれこれ言うのは、 万国共通の楽しみかもしれません。

この大家のおばさん、エリザベス女王の肖像が印刷された紙切れ(いわゆる紙幣)は別として、 王室関連を徹底して嫌い、イギリス人の生活態度、例えば寛容で無関心なようでいながら、 自分たちを徹底的に管理し、搾取しているのだという気持ちが相当強いようでした。 住宅ローンの金利の高さも嘆きの種ですが、何もかもが女王の責任であるというのです。 その頃、アメリカ西海岸で大地震があり、多数の犠牲者が出たことがありましたが、 この不平屋のおばさんは、いつになく上機嫌で、地震は神(アッラー)の怒りの現れであるとのことでした。 英米人など、糞食らえというのでしょうか……。 ここにいると、何となくその気持ちも理解できない訳ではないような気がします。

Rusty(錆)と名付けられた薄汚れた猫は、去勢手術を受けてから、一度も鳴いたことがないとのこと。 イギリス人にとって、やせ細った野良猫がゴミ箱を漁っているのは動物虐待にあたるのですが、 去勢手術は動物愛護の精神にかなったものだそうです。 それと同じ理屈から、貧しい移民が産児制限を行うのは当然のこととして、行政からの指導があったり、 子育てや教育についての「有り難い」援助やら、その他様々なイスラム教徒への目に見えない形での弾圧、 外国移民排斥への動き、サッカーフーリガンのバンダリズム、スキンヘッド、右翼少年の襲撃やら、 30年この方、様々なことがあったことを思えば、 神(アッラー)の裁きを待ち望む気持ちも判らないでもありません。 ここも様々なことを考えさせられた印象深い所となりました。


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