その4
そういった逡巡を繰り返しながら、歩き続けていたのであるが、英語を解しそうな 中年の紳士を発見した。彼もそそくさと家路へと急ぐかのように歩いていたのである が、思い切って話しかけてみた。YHの存在は知らないようであったが、住所を言う と、すぐわかったようだ。ただ、距離もあるらしく、説明するのは難しいようで、連 れて行ってやるという。遠慮していても始まらないので、言葉に甘えて、彼について 行くことにした。
町は相変わらず静かで、われわれの足音と話し声だけが、建物と建物の間をこだま しているかのようであった。所々に見かける明りの消えた花屋のショーウインドーに はハートをかたどった飾り物にヴァレンタインス・タークと書かれた文字が目につく。 聞けば今日がその日という。日本ではチョコレート製造会社が宣伝のためにでっち上 げた日だとか言われたりしていたのであるが、なんだか意外な気がした。ヴァレンタ インというのは、ローマの殉教した司祭の名前というと言うが、ここでも行事として のヴァレンタインは新しいものだそうで、アメリカからイギリス・ドイツを経て、数 年前にここオーストリアにも伝来してきたという。そういえば、去年の今ごろは、ス ペイン・ポルトガルを旅していたのであるが、そういった物を見た記憶はない。そし て、今年はドイツを旅してきたのであるが、花屋の店先などでいやというほど、目に ついたのである。クリスマスなどと同様に古い民間伝承とキリスト教が結び付いて、 行事となったが、それがアメリカからヨーロッパに逆輸入されたのであろうと、その 男の人は雄弁に語ってくれた。
そんな話を聞きながら、暗闇のウィーンを歩くうちにYHに到着し、彼はよい旅を といいながら、去っていった。そんなに上手く英語が喋れるのなら、わざわざ送って くれなくても良かったのであろうが、人好きのする親切な人であったようだ。ウィー ンには観光客が溢れていても、まだまだ観光客ずれしていない人もいるようだが、特 にドイツ語圏の人々にそういった親切な人が多いような気がした。パリならば、わざ わざ目的地へつれて行ってくれるはおろか、道順すらも教えてくれないだろうし、英 語で話しかければ無視されるのがおちである。とは言うものの、普段の私も、このよ うな親切な行為はしないだろうし、パリ人のように無視して通りすぎることが多いの だ。
せっかくYHに着いたのであるが、入口のところに満員であるとの掲示が出ており、 人が溢れている。念のため、受付で聞いてみると、やはり満員とのことだが、近くの 安宿を紹介してくれた。電話してみろというので、電話したのであるが、英語が通じ ず切られてしまった。受付の人に通訳を頼み、予約を入れてもらった。
その宿は遠くはなかったのであるが、また道に迷ってしまい、人に助けられたりし た。一度迷いだすと癖になるのか、私とウィーンの町との相性が悪いのか、とにかく よくわからない。
ようやくたどり着いた宿はとてつもなく汚く、受付の態度も悪い。それにデポジッ トと称して、多額の金子を要求されたりして、果して信じられるのかと胡散臭さを感 じだした。しかし、荷物を持って、もはやウィーンの町をさまよう気力はなく、少々 ぼられたとしても諦めようと、一泊のみすることにした。
部屋に荷物を置き、ぼんやりしていると、同室らしい日本人の男が話しかけてきた。 あまり話したい気分ではなかったのだが、柔らかい関西弁の口調に引き込まれ、ロビ ーでだべることにしたのである。同じ関西弁でも地域差は激しいが、彼は私の予想に 反せず、京都人だという。同じ京都人といっても、その人の属する文化圏によって、 その話し言葉は微妙には異なるものであるが、彼の口調は私に違和感を抱かせなかっ た。
彼もなかなかの旅人だそうで、各地を歩き回っているようだ。そんな旅の雑談をし たりしていたら、ブラジル人と称する男が話しかけてきたりして、日本はいい国だと 誉めたおしていた。外国人と話すのはそれなりに、楽しいことが多いのであるが、そ んなありきたりのことばかり言われると、なんだかうんざりしてくる。そのうち、我 々のまわりには、他の日本人の男が話しに加わってきたりして、賑やかになってきた。 さっきの京都人とは、名残が惜しい気がしたのであるが、なんだかそこにいるのが厭 になり、一人部屋に戻った。もう11時をまわっていたのであるが、部屋にはまだ人が 戻っていなかった。再び、静かな夜を迎えたのである。
翌朝は、早起きしてYHに宿を変更しようと思っていたのであるが、朝になると起 きるのが面倒になってしまった。しかし、やはりYHへ行こうとチェックアウト。朝 から行けば、多分泊まれるだろうとたかをくくっていたのであるが、その読みは甘か ったのである。
再び道に迷ったりして、YHに着くと9時前になった。もう受付は始まっている時 間であるが、列はかなり長い。とはいっても、列が進んでいるので、安心していたの だが、私の直前まできてもう一杯だというのだ。ならぶだけ損であった。予約はずっ と満員でキャンセル待ちは当日しか受け付けないという。呪われた感じである。取り 合えず、荷物を預かってくれるように頼み込み、町に出た。もし荷物を預かってくれ なかったら、さっきの宿に戻るか、再び荷物を持ってさまよい歩かねばならないこと になる。そうなれば、本当に何かに呪われていたと言えるかもしれない。
何はともかく、ウィーンに来た一番の理由はチェコスロバキアのビザを取得するこ とであった。それゆえ、まずは、チェコの大使館へと向かったのであるが、市電に乗 るお金が惜しくなり、歩いて行くことにした。ウィーンでは今回も悲惨なことが続い ているが、それは運が悪かったり、自分の怠慢が原因なのであるのもかかわらず、私 はウィーンの町を逆恨みし始めていたのである。前年来た時も何かに腹を立てて、ウ ィーンを一人嫌っていたのであるが、今回もウィーンがますます腹立たしく思えてき た。まったくもって、手前勝手な感情なのであるが、それに支配されてしまって、ウ ィーンの市電に乗ることは、それだけウィーンの市電が儲けることにつながるからと、 乗るのが厭になったのでもある。
そういった私怨ともいえる感情が、再び、私を不幸に導くことになった。大使館は シェーンブルク宮殿の近くとのことだったのであるが、途中でまたまた、道に迷って しまったのである。焦れば焦るだけ、道はわからなくなるものである。しかし、今回 も何人かの人に助けられ、小走りで大使館に滑り込んだ。もう、受付時間は過ぎてし まっていたのだが、大丈夫なようだ。あわてて書類を書いて提出した。すぐに発行し てくれるという。ウィーンに来て以来、これが初めての運の良い出来事である。
その場にいた日本人と雑談したりしてビザの発給を待った。そこでまた、別の京都 から来たという男に会った。といっても、私とは異なる言語体系を持っており、京都 人ではないようだ。不思議に思ってよく聞けば、三重県の出身で、京都にある大学の 学生という。やはり、京都人ではないのである。彼はR命館大学の4年生で、田舎の 中小企業に就職が決まり、今回はいわゆる卒業旅行という。またそれは、彼にとって の初めての海外旅行であり、初めての一人旅でもあるそうだ。それ故か、彼は熱心に 観光をこなしているようである。どこそこにはもう行ったかとか、写真のいいアング ルはないかとかいったことを、しきりに尋ねてくる。なんだか風流心が感じられない ので、うんざりしていたのであるが、これが一生のうちで最後の長期の一人旅になる だろうと観念しているようでもあった。
彼は市電乗り放題の切符を間違って二枚買ってしまったとかで、一枚進呈してくれ た。彼と市内へ戻ったが、ウィーンに精通しているような口ぶりだったのに、何度も 道を間違えてしまうのには閉口した。今回私も随分道に迷ったりしたのであるが、根 っからの方向音痴ならずとも、やはりわかりにくいことは確かである。
彼と別れて、鉄道の割引切符を扱っているトランスアルピーノ社に立ち寄り、プラ ハ行きの切符を購入した。225シリング(2千円強)と、350シリングしたビザに比べ れば、格段に安い。鉄道の切符が、単なる入国許可証であるビザよりも安いとは不思 議な気がした。
そこを出ると、昨日宿で喋った京都人と再会した。暇にしているというので、一緒 に市場などをぶらついたが、彼はD志社大学の4年生で、就職までのひとときの卒業 旅行という。早春のヨーロッパを旅していると、そういった人間にイヤというほど出 会うが、彼もその一人である。彼らの多くは、これが最初で最後の長期の旅行だとい うので、ガイドブックのマニュアル通りに、優等生的が課題をこなすかの如くに、真 面目に観光に励むのであるが、ただ彼は、そういった連中とは少し違っているようで あった。昨夜の雑談の中で、彼がかなり旅の場数を踏んでいることは明かであったが、 それ以上に物事に対するゆとりと達観のようなものが感じられた。
旅も場数を踏むようになると、ある程度はパックツアー的な観光の呪縛から開放さ れるのであるが、それでもエコノミックアニマル的姿勢から自由になれず、旅を旅行 としてしか楽しめない人は多い。自由な旅を心から楽しむか否かは気質によるのもか もしれないが、彼はまさにその気質を備えた人であった。聞けば、不動産屋の御曹司 だそうで、D志社も中学からの内部進学者という。いうなれば、小金持ちのぼんぼん の酔狂で、昨夜のような安宿に滞在していると言えるかもしれない。しかし、それな りに悩みも多いそうだが、見栄を張った無理な生活をする必要もなく、朝から晩まで アルバイトに追われてお金を貯めた訳でもない。また、身を立てるためと、勉学にあ けくれた訳でもない。そういった生活のゆとりが彼のような人間を生んだのかもしれ ない。
日本の近代化を支え、資本主義社会を発展させてきたのは、まさに彼と正反対の境 遇の人々であると考えられている。例えば、集団就職で田舎から出てきて、来る日も 来る日も働いたとか、勉強一筋で東大に入り、大企業に入って働きとおしてきたとか、 そういった実直で勤勉な人々であったと言われ、そういったライフスタイルを支えて きた価値観が日本社会を支配してきたのである。そして今日、そういった資本主義文 明を支えてきた倫理感が力を失いつつあり、それに背を向け、別の生き方を選ぼうと する人々が増えてきているのである。豊かな資本主義社会の申し子ともいえるその不 動産屋の御曹司も、まさにその一人であろう。彼にとって、さらなる豊かさへの欲望 をコントロールさえすれば、そのような近代社会を支えてきた価値観は、何の力も持 ち得ないのである。さらなる発展、豊かさへの欲望に支配されることがなければ、近 代社会の「現実」(日常の生活)は虚構にしか過ぎなくなるのである。とはいっても、 いくらお金を持っていても、近代社会に構築された「現実」に捕らわれ、さらなる発 展を求めて、日々の生活に追われている人々は多いので、一概には言えない。しかし、 「現実」の虚構性に目覚めた人は確実に存在し続けているのである。例えば、一介の 放浪者として旅を続ける人々、ニュルンベルクで出会ったフルート吹きはその一人だ し、日常の生産的な生活を行いながらも、それに距離をおき、自分の趣味的な世界を 重んじる人々もその例であろう。
しかし、現実の虚構性の問題に深く突き当たれば、「現実」を越える現実も、また 虚構に過ぎないことに気づかされ、いうなればニヒリズムの深淵に迷い込んでしまう 危険が同居しているのである。さらにいうなれば、あくせくと勤勉に働くことが無意 味であるのと同様の意味で、レジャーやスポーツ、その他の遊行も無意味であるし、 世捨て人たる放浪も無意味であろう。確かに、近代の「現実」を否定すると言う意味 においては、前者(生産活動とレジャーやスポーツ)と後者(放浪生活)は区別され、 後者には意味が認められるのであるが、さらにその意味を問うならば、もはやその意 味に答えを付す根拠はなくなる。現実に対する態度、もしくは好みの問題として、そ こには単なる差異が存在しているだけかもしれない。
そういったことを話したりしながら、我々は市場をぶらついたりした。この旅が終 われば、信用金庫に就職するという彼であったが、どうせ企業社会の中に取り込まれ てしまうのさ、と自分の将来をかなりニヒルに眺めているようでもある。といっても、 D志社大学の学生は、金融関係でいうならばR命館大学の学生の多くが信用金庫にし か就職できないのとは異なり、都市銀行を蹴ってまでも信用金庫にしたのだとか、か なり世間的なしがらみに捕らわれた話をするのには苦笑を禁じ得なかった。どちらに しても、彼は不動産屋の御曹司として、家業をもりたてていくのかもしれない。
そういった世間的な雑談も面白いのであるが、私にとってもっと現実的な問題、今 夜の宿を決めるという問題が残っていたので、暗くならないうちに彼と別れることに した。彼は今夜ももあの安宿のドミトリーに泊まるという。私は従業員の胡散臭さが たまらなく嫌になり、宿を変わることにしたのであるが、彼と別れるのはとても名残 惜しい気がした。
今朝荷物を預かってもらっていた市内のYHは、やはり満員とのこと。今度は郊外 のYHを紹介してもらった。昼間、チェコスロバキア大使館で知り合った日本人から、 市電・地下鉄乗り放題の切符をもらっていたので、難なく行ける。なかなかきれいな YHで、チェックインの後、部屋に行くと、イタリア人の高校生達と相部屋であった。
相部屋のイタリア人達の中には、とても流暢なドイツ語を話す生徒がいたが、ドイ ツ系イタリア人かもしれない。このあたりも戦争などの影響で国境が変更されてきた が、北イタリアにはドイツ語を母語とする人々がかなりいるという。英語が出来ると いう生徒も何人かいて、色々話しかけられた。そのうち、誰かが若くてきれいな金髪 美人をつれてきた。とてもお洒落な人で、彼らの引率教師とは想像もつかなかった。 ヨーロッパでも女教師というと、眼鏡をかけた野暮ったいおばさんというのが、その ステレオタイプ的なイメージとして通用しているが、彼女は例外のようだ。彼らは、 日本の修学旅行のように、クラス単位でウィーン見物にきているという。今夜はこれ から音楽会に出かけるとか。日本の公立学校の修学旅行というと、どうも暗いイメー ジがつきまとうが、こちらは、豊かでお洒落な感じがした。
その夜は午前0時前に就寝したが、高校生達は、戻ってきていなかった。YHには どこでも門限というのがあるが、ここは例外なのだろうか。イタリアなどでは、責任 者の人にいくらかの心付け(インドでいうバクシーシ、つまり、お金)を渡すと、門 限を大目に見てくれる所があると聞くが、ここはイタリアではない。そういったこと を考えるうちに寝てしまったが、そのうち彼らは帰ってきたようだった。
朝食はYHの食堂へ。ここも、パンは取り放題で、紅茶を二杯飲んだり、ゆっくり してから部屋に戻ったが、イタリア人の高校生達はみんな寝ている。かなり遅くまで、 外出していたのであろう。廊下で荷物の整理をしてから、チェックアウトした。
地下鉄に乗ったりして、FJ駅へ。下車後、道を尋ねたりすると、また親切な人で あった。娘が東京にいったことがあるとかしきりに話してくれたが、これが第三世界 だと、客引きや詐欺師がカモを騙す手段として、こういった作り話をすることがある。 しかし、この人にとって、そんな話をつくる必然性はこれっぽちもなく、単純に利害 をはずれた親切でフレンドリーな行為なのであろう。
今回のウィーンでは実に沢山の人に道を尋ねてしまったが、大概親切に対応しても らえた。普段の私は、人に煩わされることが嫌いで、道を尋ねらたりするのも嫌であ り、虫の居所が悪いと、人に尋ねるくらいなら地図を見ろ、地図を見てわからなけれ ば諦めろと、思っているので、人に道を尋ねるのも、はばかられてしまうのである。 しかし、今回、ツーリストインフォメーションで地図を入手できなかったこともあり、 随分道に迷って、人に助けられたりした。また、ただ助けられるだけでなく、その人 達とのやりとり自体が楽しめたりして、必ずしも相手を煩わしてしまったとは言えな いような気がしたのである。すべての人が、道を尋ねられるなど、人に煩わされるこ とを嫌っているわけではなく、人によっては、一見煩わしい行為も、親切を施す機会 として、善行を行なって満足感を得る機会として認知されているのであろう。そして、 親切を施したと満足感を得るだけでなく、未知の人との出会いそのものを楽しむ機会 であったりもするのであろう。
9時前にホームで静かに待機しているプラハ行きの列車に乗り込んだ。東ドイツの 車両で、乗り心地は良くないが、予約の入っていないコンパートメントはかなりある。 そのうち人も乗り込んで来て、定刻通りに列車は静かに動き出した。ドナウ川を車窓 に眺めながら、オーストリア特産ワインの芳醇な味わいに酔いしれ、時は静かに流れ ていった。
車両に戻る途中で、ウィーンの宿で見かけたW稲田大学生と再会し、彼は私のコン パートメントに移ってきた。日本人と喋るのはうっとおしい時もあるが、やはり心強 いものである。その後、税関の職員がビザの日数分強制両替をしろとまわってきた。 一週間のビザをとっていたが、とりあえず二日分にまけてもらった。
列車は平原の畑地を快走したが、途中の駅より満員になり、プラハに近づいた。プ ラハ駅到着直前、列車は地下に入り、しばらく車両は闇につつまれたので、どうなる ことかと思ったが、駅は明るく、立派であった。旅は道連れというので、東欧は初め てというW大生と行動をともにすることにした。彼は熱心なガイドブックの信奉者で あり、そこに出ていたCKMという学生旅行社に向かった。しかし、そこでは要領を 得ず、国営旅行社チェドックへ、ここはとても混雑しており、ホテルも一泊40ドル以 上のところしかないという。地図をもらいプラゴトゥールという旅行会社を紹介して もらった。
そこを捜していると、以前列車で一緒だったことのあるドイツ人アベックに再会。 彼らも宿を捜しているがどこも満員で、今は闇の民宿の客引きについて行くところだ という。彼らを案内している闇の客引きの爺さんは、我々にも来ないかという。一人 10ドルと少し高いが、どこも満員というのでついて行くことにした。しかし、いくら 歩いてもその客引きのいう宿には着かない。初めに聞いた時は15分程歩けば、すぐ近 くだというのだが、アベックにも同様のことを言い、もう30分以上歩いているとか。 なんだか信用できないようなので、私はついて行くのを辞めることにした。W大生も ついてきたが、彼はもともと乗り気ではなかったようだ。
その後、引き返してプラゴトゥールへ行ったが、やはりアベックが言っていたよう に高いホテルしか残っていなかった。この周りにも闇の客引きは多いが、誰も値段を ふっかけてくる。もう一度、プラゴトゥールへ行き、ガイドブックに出ていた安いホ テルを指名して紹介してくれというと、そこなら空き部屋があるとかで紹介してくれ た。それなら、初めから教えてくれたらいいようなものなのに、外人には高いホテル しか紹介しないというのだろうか。しっかり、手数料まで取られてしまった。これな ら、自分で電話でもした方がいいようなものだが、ホテルの部屋は旅行社が押さえて いて、ホテルの裁量権はあまりないとのことである。
ホテルに着くと、もう真っ暗になっていて、W大生とツインで部屋を取った。部屋 は大きいが、共同便所は細い曲がりくねった廊下を歩かねばならず、不便である。
夕食を食べようと男と外出した。街を歩くと、照明に照らされたプラハ城が川辺に 浮かぶかのように見える。その後、店に入り、ハンバーグ風のメインデッシュに名物 のビールをたらふく飲むと、10ドルほど請求された。私の方は酔いがまわっていたの で、高いのか安いのかわからない。頼んでいないものまでを請求しているようで、W 大生が電卓を取り出して、交渉してくれた。
翌朝、もう一泊しようとすると、満員という。季節外れであるのに、革命の祭典が あるとかで、とても混んでいるようだ。空き部屋があると思われるホテルを紹介して もらった。そして、そこへ向かったのであるが、残念ながら満員という。W大生は宿 の保障がないので、ハンガリーへ向かうという。
彼と別れて、私は次の訪問予定地であるポーランドのビザを取ろうと、ポーランド 大使館へ向かった。係官はとても親切で、領事らしい人の面接もあったが、すぐにビ ザを発給してくれた。日本でだと四千円するというビザであるが、ここでは12ドルで すんだ。とても、得した気分である。これで、宿が取れなければ、ポーランドへと脱 出することが可能になった。
とはいうものの、昨日着いたばかりでプラハを離れるのは、余りに名残惜しいので、 ホテル捜しをすることにした。ダメでもともとと、チェドックで貰ったリストをもと にホテルの部屋捜しを始め、2件目のホテルで空き部屋が見つかった。但し、一泊の みという。団体客の予約が入っていて満員という。宿泊費の一部をドル払いしたいと 言うと、闇レートで交換してくれた。英語が堪能な中年の女性で、一見堅物そうに見 えるが、人当たりもよく物わかりのよい人のようである。チェコスロバキアでは、一 日20ドルが強制両替の規定なので、かなりの贅沢をしなければ、使いきれないだろう と思っていたのだが、ホテル代などが意外にかさむ。
部屋に荷物を置いてから、チェドックへ向かった。ワルシャワ行きの鉄道の切符を 買うためである。両替を済ませて、切符の購入窓口に並ぶと、かなり待たされたが、 対応は良かった。切符の受け取りにも待たされたが、全部で30分もかかってないよう である。料金の方は、学割のチケットとクシェット(簡易寝台車)利用で、11ドル+ 58.5コルナを払い、お釣りとして2.20コルナ貰った。つまり、11ドル+56.3コルナと いうことなのであるが、こちらの鉄道の料金体系として国内分は現地通貨、国外分は 米ドルなどの外貨払いと決まっているのである。結局、13ドルにも満たないお金でワ ルシャワまでの夜行列車に乗れるのであるが、こちらの物価を考えても、かなり割安 な気がする。